蒲原のいわし削り節
蒲原の削り節 戦中~戦後
日本一の削り節産地へ
戦時中は経済統制により原料の仕入も意のままにならず削り節の製造も中断されていました。
戦後はこの生業に就く者が多くなり、昭和33年には組合員も53人となり、従業員も600人に達して産地として急成長しました。
そして設備も近代化され、規模も大きくなってかつての家内工業より近代工業化へと移行していきました。
昭和四十二年、静岡県削節組合の加入業者は106社、蒲原は49社とその半数近くを占めるまでになりました。
ちなみに、組合に加入していない業者も含めると合計で100社を超えていたとも言われています。
全国的に見ても静岡県の削り節生産高は全国の40%であり、さらに蒲原はそのうちの60%以上=全国で24%の生産高を誇っており、蒲原は日本一の削り節の産地となっていました。
削り節産業の衰退
しかしその後、大手の販売攻勢と化学調味料の台頭や食文化の変化、ニーズの変化により、蒲原の削り節事業者も減少してきました。
結果、今では両手で数えるくらいしか残っていません。
しかし、その中でも製造に手間がかかる「いわし削り節」においては地域でも使われ続けており、地元食文化の中心となる食材となってきました。
<参考資料>
・『蒲原削り節の歴史』蒲原商工会より
・『削りぶしについて』益子四郎、1975年
・『川の道』「富士川・釜無川・笛吹川流域の水運」
・『蒲原町史』
- 2020.04.30
- 11:52
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